死の意味は必ずある。

死の意味は必ずある。死一般に意味があるのだから、自死にも意味はある。死に意味があるのは、人間の生とは大なり小なり他者との関わりにおいてしか存じ得ないためである。いかに関係の小さな他者とはいえ、ある人間の死を感知しない他者が皆無であることは…

苦痛なき死の可能性

苦痛のない死(後)はあり得るか(「苦痛」には周りへの「迷惑」含む)。自らの死そのものは、方法によっては苦痛がないかもしれない。だが、その死後の苦痛(迷惑)を回避することは可能か。子どもの将来とか、親への申し訳なさとか。そんなことを考えてるうちは…

生死について

強制的な死の意味付けがファシズムならば、強制的な生の意味付けもまたファシズムなのではないか。 とすれば、ファシズム批判の立場をとるならば、死の意味付け(日本では靖国)も生の意味付けも、同時に拒否しなければならない。 意味付けがない死とは、無…

網膜剥離の入院・手術

子安思想史再考の拙稿が中途の状態ですが、備忘録も兼ねて別記事を挟ませていただきます。 網膜剥離の手術のため、入院しました。家族には無論のこと、職場やファミリーサポート(子どもの保育所の送迎)の方々にご負担をおかけしてしまいました。大変ありがた…

「「事件」としての徂徠学」と「「出来事」としての徂徠学」

本稿は、「子安思想史とその批判」の補論にあたる。田尻祐一郎による「衝撃―反撥―新しい知の地平という具合に、その展開を叙述する欲求を内在させている」*1という批判からの再考の試みである。また、小島康敬が「「事件」と呼ぶに値しないような思想的事象…

子安思想史とその批判

承前周知のように、子安思想史の言説論は、ミシェル・フーコーを論拠としている。伝統、影響、発達、進化、心性、精神、切り分け、書物、作品、起源、解釈といった連続性の諸形態を「宙づり」にする必要性を説きながら、フーコーは『知の考古学』で次のよう…

言説論的転回と子安思想史

子安宣邦は、従来の江戸思想史研究とは区別して、自らを「言説論的転回」*1に位置づける。それは「言説(事件=出来事)」という方法論的視座を有することによる。やや長くなるが、子安が荻生徂徠、本居宣長に即して「言説(事件=出来事)」として分析する…

酔ったついでに

酔った時というのは、いつもと違う。どちらが本当の自分か、などどうでもいい。 頭がただぐるぐるしているだけに等しいが、ある種のリフレッシュとして、これはこれで必要ではないか。いつもと違う、という感覚が、実は大事なのではないか。

政治は「数の力」でしかないのか

十年ほど前のドラマ『白い巨塔』の、ある場面を最近思い出した。唐沢寿明演じる財前五郎の目の前に2つのレールがある。片方は強制収容所行き、もう片方はガス室行き。アウシュビッツのこのレールの前で、財前は「いずれも地獄だったというわけか」とつぶや…

「考えない葦」という論難こそ民主主義否定だ

4月27日の田中修氏による「なぜ見えぬ若者の政治的主張」を拝読した。私自身、若者に入るかどうか迷ったが、思うところあり筆を執った。個人的には安倍政権には批判的スタンスをとっているが、ここで私が為すのは、残念ながら安倍批判ではない。 田中氏は玉…

朝日新聞(2017年11月26日)「声」欄掲載文

新年早々、昨年の出来事で申し訳ありませんが、取り急ぎ、新聞版をお知らせします。原文との差異はほぼありません。また、「改憲が戦争に直結するのか」という論理的飛躍の指摘は、私も妥当だとは思います。その点を再考するためにも書きました。 戦争の恐怖…

自己責任という他者支配

今日の仕事で、ふと思ったこと。印刷機のトナーが切れ、替えようとしたら在庫がなく、慌てて発注。電話越しに「ご不便をおかけして、大変申し訳ありません」と。おかしくない?不便やけど、別にあんたが悪いわけちゃうやん。うちの上司も「失敗の原因を自分…

「積極的棄権」批判の危険性

東浩紀氏が提起した「積極的棄権」の持つ可能性が、今回の衆院選が終わると同時に潰えることを危惧して筆を執った。 東氏の提起の意義は、選挙を前提とした議会制民主主義に根本的疑義を呈した点にあると考える。思い返せば、中学校や高校の社会科の授業の時…

思考力の欠如が主権者の忘却的納得へ

政治家の失言とその撤回。個人的にはもう飽き飽きしている。国務大臣は全員がそうではないが、内閣総理大臣は国民の代表たる国会議員でもある。国会議員は選挙で当選しなければその地位を持続できない。したがって、安倍内閣を政権から退けるには、選挙で当…

「責任をとれ」という無責任さ

政治家の失言による発言撤回は、今に始まったことではない。例えば、山本地方創生相の「学芸員はガンだ」、今村復興相の「自主避難は自己責任だ」という発言が、大きな話題となった。世論はこうした見解に批判的であることは言を俟たない。政治家も世論も「…

差別的な差別批判

差別的な差別批判 2016 年10月20日、沖縄県のヘリパッド移設工事への抗議活動に対して、大阪府警の機動隊員が行った差別発言が波紋を広げている。21日には『朝日新聞』社説も掲載された。いかにこの発言が重大な事態であるかを物語っている。しかし、ここで…

「改憲派」への一回答

8月13日の朝日新聞「声」欄掲載の、鈴木博氏による「改憲派から護憲派への質問」を拝読した。以下、鈴木氏の議論に根本的な疑義を提示することで、私なりの回答としたい。 ご投稿の質問①③については、「はい/いいえ」の二択に強制的に収斂し、自ずと改憲派…

子安宣邦『徂徠学講義』―子安思想史と言説論的転回を問う―

子安思想史(敢えてこう言う)は、従来の思想史とは区別して、自らを「言説論的転回」*1に位置づける。それは、例えば次のようにある、「言説=事件」という方法論的視座を有することによる*2。 「事件」としての徂徠学という私のアプローチは、徂徠の発言が…

三度と騙されない

社会にとって、反省することは必要不可欠である。しかし、その反省がいかなる形をとるかで、その社会の今後が決定されると思う。今回の参院選で、改憲が争点とならなかったと、安倍首相は言う。メディアもその見解を受け入れ、今後は改憲に焦点が当たると報…

主権在民の意義と国民の責任

2月7日に年間追加被曝線量1ミリシーベルトを「何の根拠もない」と言った丸川珠代氏、2月17日にオバマ大統領を「奴隷」呼ばわりした丸山和也氏など、政治家による問題発言が相次いでいる。政治家も世論も「発言撤回だ」「除名だ」「辞職だ」とまくし立てる。…

「何となく」を断ち切るために

前略 自民党参議院議員 丸山和也様 あなたが、2月17日にオバマ大統領を「奴隷」呼ばわりなさったこと、新聞にて拝読しました。またネットでは、日本が「第51番目の州」となることにも言及されたとのことも拝見しました。ご発言内容の是非を申し上げるつもり…

アメリカ支配への「棘」

10月9日、「チュニジア国民対話カルチット」にノーベル平和賞が贈られた。「九条の会」や被爆者団体はその功績や活動にもかかわらず選ばれなかった。安保法制が成立した今、この情勢を見ると、日本へのアメリカ支配が象徴的に示されているように思われる。日…

「戦後民主主義の虚妄」再考

安保法案は廃案になる気配すら見せず、それに呼応するかのように法案反対のデモも規模を拡大している。しかし、メディアを通して見ている限り、安保法案の賛成派と反対派の意見が噛み合っているようには、どうしても思えない。 その要因には、意識的にか無意…

「領海侵犯」という被害妄想的虚構

安保法案の条件の1つに、「情勢の変化」が挙げられることは、既に周知の事実であろう。「情勢の変化」とは、具体的には、例えば中国による「領海侵犯」を指すだろう。しかし、これを中国側から見ればどういう見解となるのだろうか。中国の目的は「領海侵犯」…

「非国民よ、お国のために死ね」まであと一歩

7月下旬に、戦争法案に反対する学生団体「SEALDs」に対して、「自己中心的だ」と述べた武藤貴也氏への批判が起こっている。武藤氏は「SEALDs」がだまされている情報を否定し、その根拠として「法案が成立しても戦争に行くことはなく」(『朝日新聞』2015年8…

デモに、民主主義に若者はいないのか

6月18日の投稿「デモに若者がいない悲しさ」を拝読した。民主主義に関する意見には非常に納得した。しかし、一方で強く違和感を持った。14日に行われた集会には「若い人たち」が見当たらないという点についてである。 FacebookなどのSNSをはじめ、インターネ…

安倍政権とはどういう怪物か

7月15日の衆議院特別委員会で、安保法案の強行可決が行われた。16日の朝日新聞の社説や天声人語にもあるように、これは民主主義に対する重大な挑戦となろう。民主主義へ侮辱に侮辱が重ねられる昨今、小田実の「デモクラシー」観に、私は注目している。小田に…

「米歴史研究者らの声明」に見る帝国的依存とメディア

5月8日の「米歴史研究者らの声明」を読んだ。特に従軍慰安婦問題について、安倍首相に「大胆な行動をすること」を期待するという側面もある。しかし私が着目したのは、この声明が「日本の多くの勇気ある歴史家」によるアジアにおける第2次世界大戦の正確かつ…

死語「KY」の温故知新

数年前に、「KY」、すなわち「空気を読めない人間」なる言葉が跋扈したが、もはや「死語」となりつつある。この語は専らネガティヴな言語として消費された。「KY」とされた人間の排除によって、その集団には同一性が保たれる、そうした機能を「KY」は持った…

中国の運動への憧憬とその可能性

『朝日新聞』の1/11の社説では、中国の人々(特に民間レベル)の多様な現状を知る努力の必要性が説かれ、メディア側の責任が自認されている。だが、言うまでもなくこの努力は、私も含め、読者側も必要である。 学生時代から今も交流が続く中国や韓国からの留…