「日本人論・日本文化論」批判―島薗進『国家神道と日本人』と東日本大震災直後の言説に向けて―

 島薗進が近著『国家神道と日本人』(岩波書店、2010年)で強調するのは次のことである。これは本書のメインテーマであると思われる。本稿は主に、この点に関わって私の考察を述べるものである。

 

国家神道とは何か」が見えなくなっているために、日本の文化史・思想史や日本の宗教史についての理解もあやふやなものになっている。当然、「日本人」の精神的な次元でのアイデンティティが不明確になる。「国家神道とは何か」を理解することは、近代日本の宗教史・精神史を解明する鍵となる。この作業を通して、明治維新後、私たちはどのような自己定位の転変を経て現在に至っているのかが見えやすくなるだろう。このことこそ、この本で私が最も強く主張したいことだ。(酈〜酛頁)


 島薗がここで言うように、また本書のタイトルが「「国家神道」と「日本人」」とあるように、近代日本人がいかにしてナショナル・アイデンティティを形成してきたか、それがいかに現代の我々に通じているのか、これらを解明することが目的であり、この目的を達成するには、国家神道の本質を分析することが不可欠なのである。つまり、「日本人とは何か」という問いの回答は、「国家神道とは何か」を明らかにすることで得られるものなのである。このことから、「本書は(中略)もう一つの日本人論を生みだそうとするものではない」(醞頁)という意図とは裏腹に、結局は日本人論あるいは日本文化論と呼ばれる議論とさほど遠くない地平にあると言えるのではないだろうか。私が本書を通読して抱いた最も大きな疑問は、まさにこの点にある。論証過程がいかなるものであれ、本書の課題は究極的には「日本人とは何か」に答えることにあるのだ。
 この疑問はさらに、島薗の日本人論ないし日本文化論への視点にも反映される。島薗は、これらを「役に立つものも少なくない」(酛頁)と評し、あるいは国家神道の分析を通して「日本人・日本文化の独自性を過度に強調する傾向があった日本人論や日本文化論」(同前)を相対化することが出来ると言う。ここには多少なりとも日本人論や日本文化論へのある種の弁護が見られるだろう。このような文章を目にすると、私はいわば「健全なナショナリズム」論を想起せずにはいられない。樋口浩造はこの点に関して、ピエール・ブルデューに触発された「差別化の装置としての文化」という定義を用いて、丸山真男に言及しながら、「問題にすべきは、『悪いナショナリズム』か『良いナショナリズム』かという弁別ではなく、『ナショナリズム』が本来的に持っている排他性を見つめることにあるのだ」*1と指摘している 。これを踏まえれば、島薗の目指すところは「日本人・日本文化の独自性を適度に強調する日本人論や日本文化論」、あるいは「良いナショナリズム」を再構築することにあるのではないだろうか。
 島薗の議論がナショナリズムに規定された自己言及的な「われわれ語り」あるいは「自分語り」にしかなりえていないことは、何よりも本書そのものが示している。本書には、近代日本国内における国家神道の形成や機能、普及などについては触れられているものの、例えば東アジア諸国へのオリエンタリズムに浸食された政策などについてはほとんど触れられていない。「自己」を言うためには「他者」が必要とされる。ところが、本書では「他者」は言及すらされず、抑圧あるいは排除されている。これこそまさに、ナショナリズムの影響下にある「自己」の説明そのものなのではないか。

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我ながらやや今更感もありますが、昨年の8月頃に書いたものを再掲してみました。今思うと、いろいろ思うところもあり、誤読等も含んでいるかもしれないので、適宜修正は加えるかもしれませんが(というより、既に若干は加えてありますが)、改めて議論する必要があると最近感じてきたため、メモ代わりに提示しました。現在のところは、本書への基本的な疑問はあまり変わっていません。

改めて議論が必要であると言ったのは、「生命の危機に瀕してもなお自己中心的にはならず互助的精神を保持する日本人」といった、東日本大震災直後に蔓延していた日本人論を見直さなければならないと考えたためです。ここで言う「自己中心的」とは、物資不足により生じる窃盗や暴動などのことです。現実にはこうした事態が発生していたことは、若干ながらメディアでも報道されていましたが、全体の風潮としては「互助的精神」、すなわち助け合いの精神に過度に注目されていたように見受けられます。

ここでわたくしは、非日常的な状況において「自己中心的」な行動が発生してしまうことへの弁護や、東北への様々な支援や活動を行っている方々への非難をするつもりは、毛頭ありません。わたくしが問題だと考えているのは、あくまでも「日本人論」です。

仮に本気で「日本人は自己中心的にはならない」ということを証明しようとするならば、「外国人は自己中心的である」ことを立証する作業が必要不可欠になるでしょう。しかしながら、この立証は実現不可能なものだとわたくしは考えています。なぜなら、「自己中心性」とは、「国民性」(例えば「○○人は自己中心的である」という言い方)には無論のこと、「個性」(例えば「○○さんは自己中心的である」という言い方)にも回収されえないと考えているからです。その場その時に誰かが「自己中心的」であることは、日常的にもありえるかもしれません。しかし、「ある人が、生まれてから死ぬまで、どこへ行こうが何に影響されようが、生涯一貫して自己中心的である」といった事態が果たしてありうるでしょうか。

ここでわたくしが想定しているのは、やや乱暴なまとめ方ではありますが、「特異性」(その場その時)と「同一性」(いつでもどこでも)です。これを踏まえるならば、一般に日本人論や日本文化論は「同一性」を重視する議論であると言えるでしょう。これは必然的に「排他性」を含みます。その排他性はきわめて暴力的なものであるとわたくしは考えています。例えば、先ほどの例で言えば、「外国人は自己中心的である」という言い方がこれにあたると思います。実証不可能であるにもかかわらず、一方的なイメージの押し付けにより形成されるこうした考えには、わたくしは違和感を抱かざるを得ません。

一方でわたくしが注目しているのは「特異性」です。この概念については目下勉強中ですが、少なくとも「同一性」と同時に成立する「排他性」は含まれないと思います。この「特異性」にはそれはそれで問題はあるかもしれませんが、今は触れません。

話を戻すと、島薗氏の議論に抱いたのと同じ違和感を、東日本大震災直後の日本人論にもわたくしは感じました。日本人論批判、あるいは日本文化論批判に相当の蓄積があることは予想できますが、一方で日本人論や日本文化論が未だに再生し続けられているのも事実であると思います。『国家神道と日本人』をここで再掲したのは、こうした問題を考え直すために1つの参考になると思ったからです。

*1:樋口浩造「ナショナリズムと文化研究―戦後日本文化論の何が問題なのか―」(大平祐一・桂島宣弘編『「日本型社会」論の射程―「帝国化」する世界の中で―』文理閣、2005年)、36頁。