諸々のご報告

 ご無沙汰しております。ここしばらく更新していなくてすみません。といっても、ご覧いただいている方はそう多くないかもしれませんが…。とりあえず、近況をご報告申し上げたいと思います。

1.修論関係

 「徳川日本における歴史認識―前期水戸学をめぐって―」という論題の修士論文を提出しました。口頭諮問も無事終わりました。内容の詳細については、インターネット上のブログで言うべきものなのかという保留が個人的にあるので割愛します。
 ただ、修論の本文にはあまり反映していませんが、自分の中では、大きく分けると2つの問題を同時に考えようとした(ないしは考えざるをえなかった)という意識が、執筆中には強くありました。1つは、言うまでもなく「前期水戸学」が当該期において持った意味です。これは、僕の中では前期水戸学の有した〈事件性〉ないしは「言説」を問題とすることでした。この考え方は、桂島宣弘先生にご指導いただきながら、いわゆる「子安思想史」に強く影響を受けて、僕なりにもがいた結果です。当然のことながら、その作業は史料の読み直し作業と同時に行われなければなりませんでした。先行研究の分析ではなかなかすんなり理解できない史料に対してどのように向き合えばいいのかという問いは、執筆中にずっと僕の中にありました。余談ですが、僕はゼミでたまに「理論派」とみなされますが、『大漢和辞典』を使いながら漢文(たまに白文の史料も…泣)や候文を読むという上記の作業を行っているので、あまり「理論派」という自己認識はありません(笑)あるいは、江戸思想研究ネットワーク(http://d.hatena.ne.jp/edoshisonetwork/)では、史料を現代日本語訳にする際に、報告者の先輩が文脈が通るように意訳なさっていたのに対して、僕は素直に直訳した方が理解がしやすいのではないかという意見を提示して、一語をめぐって20〜30分間かけて議論を詰めたこともあります。かつては、「理論が〜」とか「実証が〜」といった具合に分けて考えていましたが、それらが不可分のものであり、いずれかを重視するというのがあまり意味がないというのが、ようやく実感できてきた気がします。
 しかし、この「言説」というミシェル・フーコー由来の用語は、僕にとっては非常に難解な言葉であり、正直申し上げて完璧に理解したとはなかなか言えません。これが第2の問題でした。さらには、酒井直樹氏や磯前順一先生による、日本におけるこの用語の理解自体の問い直しを迫るような論考もあり、どうすればいいかをいろいろ試行錯誤しながら考えていました。また、それに付随する問題でもありますが、「普遍」という用語の理解も重要な課題でした。これは、水戸学の代表的な見解を提示した尾藤正英氏が〈普遍/特殊〉という構図によって水戸学(さらには江戸思想史全体)を分析してから、先行研究ではあまり問われることがなかった枠組みであると言えると思います。とりあえずは、ジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェクによる議論を参照しましたが、問題がかなり大きなものであるために、論点がかえってわかりにくくなってしまったかも…と今になると思ったりします。
 今申し上げたような問題もまだまだ考えなければならなかったのかもしれませんが、個人的な1番の課題としては、明清王朝や朝鮮王朝の史料の分析が結局遅々として進まず、あまり修論に盛り込めなかったことです。一般に史書経書と比べると二義的な地位にあることもあり、『大日本史』を編纂していた水戸学とは安易な比較が許されず、その分だけ難易度が高いとは思うのですが、やはりやってみたかった…という若干の後悔があります。もちろん、修論の執筆自体は「やりきった」という達成感のようなものはあったのですが、その後になって飢えてきたというか何というか…という感じです。

2.就職関係

 某塾で小中学生の文系教科を担当することになりました。最近は高校入試の問題を解いて「…こんなに難しかったっけ…?」と驚きながら焦りながら、でも授業構成を考えながら…という日々を送っています。それに伴い、一人暮らしを始めました。まだ始めたばかりでいろいろ慣れないところもありますが、何とかやっていけそうです。でも、そうそう簡単には研究から縁が切れるというわけでもなく、酒井直樹氏の『日本/映像/米国 共感の共同体と帝国的国民主義』にある「学歴社会は、統計に代表される国家の管理制度だけでなく近代化一般の勝利を示しているといってよいだろう」(8頁)とか、「学歴をめぐる競争に参加することは、一定の権力関係のなかで個人として主体化することであって、競争から『降りてしまう』者には権力が機能しなくなる」(11頁)といった指摘は、職業柄ものすごく考えさせられるものがあります。特に勤務地がそういう傾向が強くなりつつある場所だと余計に。もっとも、酒井氏の議論のポイントは別のところにあると思いますが…。
 私事で恐縮ですが、高校入試の結果待ちの時の個人的な恐怖体験が、この問題を考えるうえで貴重な体験だったのかなぁと、今になってみると思ったりします。当時、数学の自己採点がものすごく低く、第一志望の高校には落ちたと思い、そこそこショックを受けていました。それで、何とか自己正当化をできないかと考えていたような覚えがあります。そこでたどり着いたのが、「負ける人間がいるからこそ勝つ人間がいられるんだから、受験に合格した人は不合格者のおかげで合格しているのだ、だから合格者は不合格者に感謝すべきである」という、きわめて傲慢な考えでした。しかしながら、傲慢ではありますが、「負け」という強烈な恐怖に対処するために、〈勝ち/負け〉という二項対立そのものを潰しにかかっているという評価が、ここから導き出すことができ、いろんな問題を提出することができなくはないようにも思います。実は、本格的に仕事が始まれば、こういうことをのんびりと考える時間も減るかもしれないと思ったのが、今日のこのブログを書こうと思った最大の動機です(笑)間違っているかもしれませんが、とりあえずの現段階の考えとして書き留めておきます。



やや冗長になりましたが、近況報告をさせていただきました。また、ここには書きませんでしたが、いろいろ落ち着いたらどこかの交響楽団に所属してホルンも復活したいなぁと考えています。新生活、頑張ります!