新年のご挨拶&朝日新聞(2012年12月19日付)「声」欄掲載文

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

昨年は社会人1年目ということもあって、仕事に慣れるので精一杯という感じで1年が終わった気が致します。今年は(部署やら何やらに大きな変化がなければ)多少楽にはなると思うので、研究会に参加しに行ってみたり、論文もどきの草稿を書いてみたり、必要に応じて史料調査しに行ってみたり、楽器を吹きに行ってみたり、社会人オケを探してみたり、いろいろお酒を飲んでみたり(?)、また中国に旅行に行ってみたり…と、仕事以外の面も充実させたいと思っております。もちろん、仕事をテキトーにするという意味では決してありません(笑)

さて、昨年末に、幸運にも新聞に自分が書いた文章を掲載いただくことができました。そのご報告やら補足やらをしようと思いつつ昨年中にはできませんでした(仕事の冬期講習でバタバタしていたので…)。ここで紹介をさせていただこうと思います。すいません、長くなってしまいそうな気がします…(長いこと文章書いてなくてストレスg(ry

【新聞版】

他者への想像力、今こそ必要

自民党安倍晋三総裁が発表した総選挙公約の中で、私が注目したのは「教育」と「憲法改正」だ。ここに今年大きな問題となったいじめと、東アジア諸国との関係悪化が集約されている。だが、これらの項目の間には大きな矛盾があるように思える。

 いじめ問題から私たちは「他者への想像力」を学ぶべきである。自分がされたら、という想像力の欠如がいじめや差別などにつながっているからだ。ところが「国防軍の保持」を視野に入れた憲法改正には、日本がアジア・太平洋戦争で侵攻した諸国の国民が持つ記憶への配慮、つまり他者への想像力が欠けている。支持する人々は、戦争が自分や相手にもたらす現実を想像したことがあるのだろうか。

 自民党の公約が持つこの矛盾は、日本全体に存在していると思われる。だからこそ、私たちは他者への想像力について再考する必要があるのではないか。

以下は原文です。

【原文版】

「他者への想像力」の必要性

21日の朝刊に、自民党の選挙公約案が掲載された。私が特に注目したのは、「教育」と「憲法改正」の項目である。ここには、今年の大きな2つの出来事、すなわち、大津市などでのいじめの事件と、東アジア諸国との国際関係の悪化が集約されているように見受けられる。しかし、この両項目の間には大きな矛盾があるように思われてならない。

私たちは、いじめに関する事件から、何を学ぶべきなのだろうか。それは、「他者への想像力」であると、私は考えている。「いじめるな 自分がされたら どう思う」といった想像力の欠如がいじめへ、さらにはあらゆる社会的抑圧へと直結しているのであれば、無論私たち1人1人が真摯にこの事態を受け止めなければならない。

ところが、「国防軍」を持つことを視野に入れた「憲法改正」には、日本がアジア・太平洋戦争で支配、侵攻した東アジア諸国の国民がどのような記憶をもっているか、つまり「他者への想像力」が著しく欠如していると言わざるを得ない。「国防軍を持たないことは非現実的だ」という意見もあるが、そういう意見を持つ人々は、果たして戦争が自分や相手にもたらす現実を直視、あるいは想像したことがあるのだろうか。

自民党の公約案の持つこうした亀裂は、自民党のみならず、日本全体に存在していると、私には思われる。だからこそ、「他者への想像力」について、私たちは再考する必要があるのではないだろうか。

見ておわかりの通り、原文の方が冗長です(笑)記者の方(?)が校正してくださりました。

一応自分としては、これまで江戸思想史メインですが、仮にも歴史学に携わってきて、スピヴァクの講演を聞きに行ったこともあって、「想像力」についていろいろ考えていました。その矢先、選挙が云々、公約が云々という流れになっていたので、自分なりの考えをぶつけてみたのが、この投稿です。

以前に新聞に投稿した時もそうでしたが、今回の投稿でも酒井直樹の「普遍性」と「普遍主義」の区別は意識したつもりです。以前の投稿が「普遍主義」への抵抗であるとすれば、今回の投稿は「普遍性」の開示の試み、とでも言えるでしょうか。(言えないでしょうか…

例えば酒井は、戦前の帝国日本や植民地をめぐって、以下のように述べています。

重要なことは、普通選挙体制への移行の徴がただちに人種差別の緩和や植民地支配体制の廃止を意味するのではなく、むしろ植民地における権力関係が生政治の編制により適合したものになってゆくことである。つまり、「内地」で整備されつつあった生政治の権力関係の編制が朝鮮半島や台湾でも整備されてきたという点である。普遍性は可能性について働く特殊性と一般性(種と類の区分)とは違って、潜在性において問題となる独異性あるいは単独性にかかわるからである。社会的平等の要求が厳密化されるとき、この価値が既存の秩序のなかでは「アポリア」であることが判明する。既存の秩序のなかでは、十分に了解することも、社会的抗争を引き起こさずに受容することもできない、秩序に矛盾をもたらす価値なのである。普遍主義が秩序のなかに収容されうるものであるのに対して、とりあえずアポリアとしての価値を普遍性と考えておこう(酒井直樹『希望と憲法以文社、2008年、142頁、強調は酒井)。

今回の投稿では、もう1つ注目したキーワードがあります。「想像力」です。これは、昨年講演を聞きに行った(から、というわけではありませんが)、スピヴァクナショナリズムに関する議論を参考にして使ったものです。スピヴァクは「ナショナリズムは、それがどんなものであれ、自分たちは特別な生まれだという私的な確信を持つことによって、そして、二次的派生物ではない私的な―自分の街にいるのだという―安らぎを足場にすることによって、確保されるということです」(ガヤトリ・C・スピヴァクナショナリズムと想像力』青土社、2011年、21頁)と言っているのですが、「自分たちは特別」という「私的な確信」や「安らぎ」という点では、いじめにも共通する点があると考えました。そうした「ナショナリズム」と先述の「想像力」との関係は、以下のように述べられています。

(複数の)言語を用いることによって鍛えられた想像力は、民族のアイデンティティがみずから真理だとする主張を解体するかもしれず、したがって、国家の働きを覆い隠す文化ナショナリズムと――私たちとの」結びつきを解いてくれるかもしれないのです。またしても「かもしれない」です。人文学教育だけが世界を救うことができる!などという愚かなことを申し上げる必要はありません(とりわけ今日の人文学教育の現状を見れば)。あるいは、世界を救う決定的な策があるなどとは思いません。また、「世界を救う」という言葉や考え方に意味があるとすら思いません(同前、53頁)。

後半の留保は、新聞にはスペースの都合上書けなかったことですが、見落としてはならない点だと思います。

「「他者への想像力」を働かせれば、きっといじめはなくなって、変な公約も無効になって、万歳万歳!!」といったような結末を臨んでこの投稿を書いたのでは決してありません。ただ現状を見て「どうにかならんのかな〜」っていう気持ちの方が強いです。「どうにかならんかな〜」を言語化したのが今回の投稿でした。

何かまとまりませんね(笑)また気が向いたら追記します。