朝日新聞(2011年8月2日付)「声」欄掲載文

2011年8月2日付の朝日新聞(朝刊)の「声」欄に拙文が掲載されました。ここでも一応紹介させていただこうと思います。海外在住で「読みたい」と言っている友人もいますので。

「「常識やろ」無視同様に嫌悪」

「常識やろ」「それが普通じゃないの?」。こういう言葉をずっと聞かされてきましたが、昔から何か違和感がありました。中学時代、「なぜ目上の人には敬語を使うんですか?」と先生に聞き、「そんなの常識だからだよ」と言われたのが記憶に残っています。私は最近、これらの言葉は、会話の相手に向けて発せられたものではないと感じるようになりました。
 そもそも「常識」が通用する範囲には限度があります。若者には常識でも年配の方には非常識、という事例はよくあります。簡単に「常識やろ」と言われると、こうした違いを想定せず、自己中心的に発言している印象を受けます。
 「なぜ常識に従わねばならないのか?」と問われた側は、ほとんどの場合、「常識だから」という答えしか返しません。「常識には従わねばならないから常識に従え」というのでは非論理的です。
 何も「非常識であれ」と言いたいのではありません。でも「常識やろ」の言葉は、眼前にいる私が想定されていないような感覚を抱かせます。私はそこに、無視されるのと同じ嫌悪感を覚えるのです。

ちなみに、原文は以下のものです。

「「常識やろ」の意味と力」

「常識やろ」「普通じゃない?」「マナーを守れ」…。こうしたことは昔から家庭や学校でずっと聞いてきて育ってきたし、就活をしている今もよく耳にする言葉です。おそらく仕事でも聞くことになるでしょう。でも、昔から何か違和感がありました。最近気づいたのは、例えば「『常識やろ』という言葉は、会話している相手に向かって発せられた言葉ではないのではないか」ということです。その根拠は、主に次の二つです。
 第一に、「常識」が通用する範囲には必ず限度があると言えます。若者の間では常識でも年配の方々からすれば非常識である、ということはよくあります。「常識やろ」は、こうした違いを想定しない自己中心的な発言である場合が多いように思います。第二に、「何故常識に従わなければならないのか」という問いを言われた側が返せば、ほとんどの場合「常識だから」という答えしか返ってきません。「常識には従わなければならないから常識に従え」というわけです。これでは、小さな子どもが「欲しいから欲しい」と言って物をねだるのと同じぐらい非合理的であり、また言われた側は問答無用で従うことしかできません。
 ここで私は、別に「非常識であることが絶対に必要だ」と言っているわけではありません。しかし、「常識やろ」と言われたときには、私に発せられた言葉なのに、私が想定されていないような感覚に襲われます。それは、無視されるのと同じぐらいの恐怖感なのです。

これらのいずれでも言及できませんでしたが、私自身もこれまで何度も「常識やろ」と言う側に立つことがありました。特に部活やサークルではその傾向が顕著であったかと思います。したがってこの文章は、社会への疑問であると同時に自己批判でもあります。

この拙い文章で最も私が力を込めたのは、「これらの言葉は、会話の相手に向けて発せられたものではないと感じるようになりました」という一文です。これが「無視されるのと同じ嫌悪感」に直結しています。あるいは「恐怖感」と言ってもかまいません。微妙にニュアンスは違いますが、「嫌悪とあると同時に恐怖である」と言ってもいいと思います。新聞版の具体例の中に「中学時代」のことが書かれていますが、この典型例から示唆されるように、「常識やろ」は「教育」の場面できわめて多く発せられる言葉であると考えられます。すなわち、「教育」とは「常識の身体化」であると言えます。この場合の「教育」とは「学校教育」のみならず、「家庭教育」や「社会人教育」をも含むものです。

私の思い込みかもしれませんが、一般に大人の時よりも子どもの時の方が、「あれは何?」「これはどうしてなの?」といった疑問を多く持つのではないでしょうか。それは、子どもが未熟であるということではなく、「教育」の過程で「何?」「どうして?」といった問いを抱くこと自体が、「常識やろ」と言われることで抑圧されていく、つまり「常識の身体化」が行われるからだと考えています。仮に、大人というものが子どもよりも成熟したものだとして、その差はどの程度のものなのでしょうか。それほど圧倒的な差が開いているのでしょうか。例えば、子どもには原発問題の対処の仕方がわからなくても、大人ならわかるとでも言うのでしょうか。かなり極端な例をあえて出しましたが、私には子どもと大人にそれほど大きな差があるとは思えないのです。

歴史を見れば、そのことはより明確に理解されると思います。現代において「子ども」と言われる年齢の人間は、かつては「小さな大人」だったという研究成果もあります。要するに、「小さな大人」は、例えばその体の小ささを生かして狭い空洞に入って仕事を行うことができたのです。しかし、「大人」というのは「子ども」と同時に成立する概念ですから、先ほどの言い方は厳密に言えば、おそらく適切ではありません。そうではなく、「大人/子ども」という同時成立の概念そのものが、歴史的に形成された構築物だということが言えると思います。

ここまで、「常識やろ」に批判的なスタンスを取ってきましたが、新聞版でも原文版でも書いたとおり、これは「非常識であれ」ということではありません。常識の必要性は私も認めています。したがって、教育の必要性も感じています。しかし、私が問題にしているのは、その常識を(教育という形を取るにせよ)いかにして共有していくかということです。この問題を提起したかったために、私は文章の最後の方で「でも」(新聞版)、あるいは「しかし」(原文版)という逆接表現を入れたのです。この逆接表現は、掲載される前に記者の方(になるのかな?)にも残してもらうようにお願いした個所です。

この問題に関しては、私自身も現在は考えている途中です。ヒントになりそうなのは、磯前順一先生にこの前期にご指導いただいた、ポストモダンポストコロニアルの議論です。それも自分の中でうまく消化できていないため、今のところは何とも言えませんが、酒井直樹氏の「普遍性」と「普遍主義」の区別が参考になるのかも…とは思っていますが、そもそも酒井氏のものを熟読したことはあまりないので、やはり今は模索中です。