「遊んであげる」といういじめと差別

ご無沙汰いたしております。最近いろいろ考えることが多いので、少し文章にまとめてみます。今月に入って取り沙汰される「いじめ」についてです。

 大津市の中学生が自殺した事件について、いじめを放置した(いじめに加わった)教師へのバッシングが高まっている。そうした批判はあって当然だが、いじめる人には「いじめている」という意識がほとんどないと思われる。むしろ「遊んであげている」という感覚の方が強いのではないか。そして、その感覚を経験したことがある人はかなり多いのではないか。
 ここで考えなければならないのは、いじめる側にある「遊んであげている」という考え方である。一方、「(せっかく)遊んでもらっている」という感覚がいじめられる側には生まれてしまい、この人間関係から逃れられなくなってしまう。「遊んであげている」というのは、自分の思考や行動においてのみ他人の存在を認めるということである。その意味で、「遊んであげている側/遊んでもらっている側」という人間関係は「飼う側/飼われる側」と言い換えることができる。
 これが不公平で差別的な人間関係であるのは一目瞭然だろう。しかし、「遊んであげている」人は良かれと思って「遊んであげている」いるため、この差別に気づくことは日常的には難しい。いじめの放置を批判することはたやすいが、同時にその批判が多くの人が共有していると思われる無意識的な差別を暴き出す両刃の剣であることを忘れてはならない。

私は昨年、「『常識やろ』無視同様に嫌悪」(朝日新聞2011年8月2日)という題の文章を書きました。その時と問題意識はあまり変わっていません。むしろ、教育に携わるようになって、ますますこの問題について考えるようになっている気がします。

いじめっ子であっても教師であっても、支配する側に立つという点では共通していると思います。私は職場でその支配する側に立たざるをえない。ところが、問題意識として通底しているのは被支配側がいかに抵抗できるかということです。したがって、今現在、両義的な立場に立っていて、正直戸惑っています。もっとも、こうなるのは就職した時からわかっていましたが。

単なる愚痴になってしまいましたが、初心を思いとどめておきたかったので書いてみました。いかにすれば〈支配/被支配〉という枠組みから逸れた人間関係が構築できるのか、あるいはそんなことは不可能なのか。そもそもこうしたことを試行錯誤していること自体が傲慢なのか。ただグダグダ言っているだけで、問題は尽きませんが、とりあえず備忘録として残しておきます。

追記(7/15)

やや改訂してみました。


 大津市の中学生が自殺した事件について、いじめを放置した教師や隠蔽しようとした教育委員会へのバッシングが高まっている。そうした批判はあって当然かもしれない。しかし、問わなければならないのは、いじめる人には「いじめている」という意識がほとんどなく、むしろ「遊んであげている」という感覚の方が強いという事態ではないか。
 ここで考えなければならないのは、いじめる側にある「遊んであげている」という考え方である。一方のいじめられる側には、「(せっかく)遊んでもらっている」という感覚が生まれてしまい、この人間関係から逃れられなくなってしまう。「遊んであげている」とは、自分の思考や行動においてのみ他人の存在を認めるという意識である。その意味で、「遊んであげている側/遊んでもらっている側」という人間関係は「飼う側/飼われる側」と比喩的に言い換えることができる。
 これが不公平で差別的な人間関係であるのは一目瞭然だろう。しかし、「遊んであげている」人は良かれと思って「遊んであげている」いるため、この差別に気づくことは日常的には難しい。いじめを批判することは必要だが、安易な感情論からは何も生み出されない。誰もが持っている「遊んであげている」という感覚が容易に「いじめ」に転化しうること、それを私たち1人1人が自身に問い直さなければ、「いじめ」はなくならないのではないか。