「他者への想像力」再説 体罰による自殺事件をうけて

少し前にまとめてみた文章です。

私は二〇一二年一二月一九日、「「他者への想像力」今こそ必要」という文章を「声」欄に投稿した。それと時を同じくして近隣の高校の生徒が体罰を受け、直後に自殺したことをニュースで知った。

体罰が正しい教育だとは全く思わない。ただ、安易な体罰反対論は、実際に体罰を受けている生徒を苦しめると思われる。二〇一一年八月二日の「「常識やろ」無視同様に嫌悪」という投稿で、「常識やろ」は眼前の他者を無視する言葉だと私は提起した。「体罰禁止は常識やろ」という単純な体罰反対論は、実際に体罰にさらされる生徒を無視するのではないか。

「社会的に禁止される体罰を自分は受けている」という意識は、教師への抵抗の表明にも社会からの疎外感にも、結実しうる。つまり、体罰反対論は両義的な効果を生み出すと考えられるのだ。この両義性に注意する必要があると思われる

無論、私の考えには「遺族の方々の感情を逆撫でする」という批判も想定しうる。私もその暴力の可能性に苦痛を抱きながら、今この文章を書いている。しかし、「他者への想像力」とは、こうした暴力性を自覚しつつ、社会的抑圧への抵抗を示すものである。その過程においてこそ、新たな社会のあり方を模索しうるのではないか。

我田引水しまくり。そして、我ながら、磯前先生や酒井直樹を経由したポストモダンの理解を、自分なりに咀嚼したことが丸わかりの文章。いい加減こういう他人の土俵を借りて相撲をとる書き方も自分で嫌になってきた。自分なりの言葉で言わないと。院で言われたことがまだできてない。

とりあえず、念頭に置いている言葉を挙げておきます。ほんの一部ですが。

「私は、他者の侵入が私自身の自己性に先行したかぎりでしか、私自身への、私の《自宅》への関係をもつことができないのです。(中略)私は、他者の餌食であり、他者の人質であって、倫理は、こうした人質の構造に基礎づけられなければなりません」(ジャック・デリダ『言葉にのって』、96〜97頁)。