報道されない「事実」とその「忘却」

 ここ数日、SNS上の私の周りで「東日本大震災後の韓国の街」と題されたサイトがシェアされている。東日本大震災の後に、韓国の街に日本を応援する横断幕やメッセージが数多くあったという内容である。中には、小学生ほどの年齢と思しき子どもからのメッセージもある。当時メディアでも、各国政府からの支援は報じられていた。しかし、記憶の限り、こうした民間レベルの動きが大きく報道されたことはなかった。
 『朝日新聞』は、1/1と1/3の社説で「歴史」に言及している。従軍慰安婦問題を背景としているのであろうが、いずれも閉じた一国史を批判し、開いた歴史を世界に提示すべきであるというのが主旨である。その主旨自体には賛同するが、この根本に「事実」があるのは、過去も現在も同様である。そうだとすれば、「東日本大震災後の韓国の街」の見られる「事実」が当時報道されなかったことは、エルネスト・ルナンの「忘却」に通ずる出来事ではないか。
 私にとっては、誤った「事実」が報道されるのと同様、「事実」が報道されないことも恐怖である。しかし、昨今のメディアの議論を見ていると、前者のみに焦点が集中しているように思われてならない。後者の考察を欠くことは、意図はどうあれ、閉じた一国史を招来せしむるのではないか。