政治は「数の力」でしかないのか

十年ほど前のドラマ『白い巨塔』の、ある場面を最近思い出した。唐沢寿明演じる財前五郎の目の前に2つのレールがある。片方は強制収容所行き、もう片方はガス室行き。アウシュビッツのこのレールの前で、財前は「いずれも地獄だったというわけか」とつぶやく。普段はドラマを見ないが、財前のその後を暗示するこの場面は印象に残っている。
 この場面を想起したのは、「憲政史上最悪」と評された国会が幕を閉じたときである。評される与党が「数の力」に依存しているのはしばしば指摘されるが、評する野党も、世論調査を引き合いに出す点では「数の力」に依存している。与野党はいわば共犯関係にあると言える。この共犯関係を前にして、結局政治は質ではなく量なのかと途方に暮れている。
 だが、地獄へのレールのポイントを切り換えられるのは、政治家ではなく主権者である。希望とは歩くことでできる道のようなものだという魯迅の言葉を、絶望の今、改めて大切にしたい。

「考えない葦」という論難こそ民主主義否定だ

4月27日の田中修氏による「なぜ見えぬ若者の政治的主張」を拝読した。私自身、若者に入るかどうか迷ったが、思うところあり筆を執った。個人的には安倍政権には批判的スタンスをとっているが、ここで私が為すのは、残念ながら安倍批判ではない。
 田中氏は玉稿にて「なぜこんな調査結果なのか」と問いかけておられる。私見では、むしろ田中氏の玉稿そのものがその問いへの答えである。「私が若い頃は云々」とおっしゃるが、同年代の方々は皆そうだったのか。あるいは「電車などでゲームをする若者が多い」とおっしゃるが、管見の限り、年配の方もよくゲームをなさっている。電車内で読書していると、年齢を問わず、私は孤独を感じる。
 木も見ず森も見ず、世論調査と体験のみをあてにした安易な一般化こそが、「考えない葦」を生産する。そして、そんな葦を教育という装置を通して生産してきたのは、いったい誰なのか。自らを棚に上げて、他世代を「考えない葦」と論難することは、「考えない葦」の再生産にしか帰結しえず、それこそ民主主義の否定であると私は考えるのだが、いかがだろうか。

朝日新聞(2017年11月26日)「声」欄掲載文

新年早々、昨年の出来事で申し訳ありませんが、取り急ぎ、新聞版をお知らせします。原文との差異はほぼありません。

また、「改憲が戦争に直結するのか」という論理的飛躍の指摘は、私も妥当だとは思います。その点を再考するためにも書きました。



戦争の恐怖、想像力働かせる

 自民党改憲勢力への賛同が18〜29歳で多いことを危惧する投稿「特攻志願『お前たち馬鹿だ』」(9日)を拝読した。自己批判する機会を頂戴(ちょうだい)したことに感謝したい。返答になればと思い、私見を提示する次第である。

 私たちは戦争を直接は経験していない。戦争の恐怖を実感するには、想像力を働かせるしかない。私の経験でいえば、漫画「はだしのゲン」で想像力を培ったつもりである。原爆投下直後の人々の様子、皮膚が焼けただれ、ガラスが突き刺さり、眼球が飛び出し、ぞろぞろと歩き、バタバタと人が死んでいく。投下後も、髪が抜け、血便、吐血、そして死。中学生で読んだとき、私はこの場面で嘔吐(おうと)した。読書で嘔吐したのは、後にも先にもこれしかない。

 身体に影響が出るほどの戦争の恐怖。確かに嘔吐は苦痛である。だがその苦痛なくして戦争の恐怖を想像することは、私にはできなかった。戦争を描写したメディアは多くあるが、戦争の恐怖を描写したメディアに、私たちは触れる機会が少なかったように思う。特に教育の場では顕著である。そのことを見直すべきではないか。

自己責任という他者支配

今日の仕事で、ふと思ったこと。

印刷機のトナーが切れ、替えようとしたら在庫がなく、慌てて発注。

電話越しに「ご不便をおかけして、大変申し訳ありません」と。

おかしくない?

不便やけど、別にあんたが悪いわけちゃうやん。

うちの上司も「失敗の原因を自分に求めれば成長できる」とか言うけど、見境なくそんなことしてたら、ただの自己中ちゃうんか。

相手の不便を自分の失敗に転化するのは、自分が他人を支配するのと同じなのではないか。「あなたの不便は、私の失敗の支配下にある」、「あなたは、私の支配下にある」と。たとえ、表面的には善意であっても。

とりあえず謝っとけばオッケー的なこの風潮は、「日本的」と形容されそうやけど、抽象的に「日本的」と言ったところで何も解決せず、むしろ「まあ、国丸ごとの問題やし、しゃーないよな」と、曖昧に誤魔化されるだけ。

上司にこれを直で言うわけにはいかんけど、少なくともこんな思考停止状態には、俺はなりたくない。

「積極的棄権」批判の危険性

 東浩紀氏が提起した「積極的棄権」の持つ可能性が、今回の衆院選が終わると同時に潰えることを危惧して筆を執った。

 東氏の提起の意義は、選挙を前提とした議会制民主主義に根本的疑義を呈した点にあると考える。思い返せば、中学校や高校の社会科の授業の時から、「選挙では投票に行くように」と言われてきた。それは私だけではないだろう。そして、現に私は、今回も含めて、欠かさず投票をしてきた。選挙での投票は、議会制民主主義という制度の歯車を回し続けるには必要不可欠な作業である。東氏の提起は、「積極的棄権」により歯車を回さないことで、議会制民主主義を批判的に再考しようという点に、本意があるのではないか。それは別の民主主義の在り方を模索する可能性をも示唆する。

 「棄権は危険」といった意見が散見されるが、私も理解はできる。主権者にとって、投票は政治運営に参加できる主たる機会だということだろう。だが、だからといって別の民主主義の可能性が抑圧されることには、納得できない。そう思い、投票には行ったが、東氏のキャンペーンにも署名した。「保守対リベラル」という奇妙な対立構図の中で、「積極的棄権」は「革新」に分類されうるかもしれない。東氏に言わせれば、この私見は「誤配」なのかもしれないが、この第三極による民主主義の活性化の可能性が、衆院選後に抹消されることだけは、何としても避けたい。



以上、いつも通り某新聞「声」欄への没稿です。

思考力の欠如が主権者の忘却的納得へ

政治家の失言とその撤回。個人的にはもう飽き飽きしている。国務大臣は全員がそうではないが、内閣総理大臣は国民の代表たる国会議員でもある。国会議員は選挙で当選しなければその地位を持続できない。したがって、安倍内閣を政権から退けるには、選挙で当選させないことが選択肢としてある。だが、恐らくそうはならない。先は見えている。安倍政権の存続である。なぜなのか。

 選挙があるため、政治家の地位は本来可変的である。それにもかかわらず政権が不変的なのは、主権者が不変的だからである。その大きな要因は、思考力にある。仕事や日常生活でも、要領の良さ、成果と共に行動力が特権的に重視され、要領の悪さ、過程と共に思考力がいとも簡単にポイ捨てされるのが現代日本である。大学の人文系学部の蔑視が典型ではないか。種々の悪法成立の際にも、「デモに参加した」という「行動」で、政治参加をしたと思っている方も多いと思う。

 政治家の失言があると、大方の「声」はその政治家に向く。しかし、それでは政権を逆説的に持続させることにはなっても、交代させることは不可能だと考えている。政治家への表面的かつ行動的な批判をして事足れりとする態度は、このポイ捨てを助長することにしかならない。その先は、政治家の発言撤回と、主権者の忘却的納得である。私の「声」は政治家ではなく、主権者に向けている。