「積極的棄権」批判の危険性

 東浩紀氏が提起した「積極的棄権」の持つ可能性が、今回の衆院選が終わると同時に潰えることを危惧して筆を執った。

 東氏の提起の意義は、選挙を前提とした議会制民主主義に根本的疑義を呈した点にあると考える。思い返せば、中学校や高校の社会科の授業の時から、「選挙では投票に行くように」と言われてきた。それは私だけではないだろう。そして、現に私は、今回も含めて、欠かさず投票をしてきた。選挙での投票は、議会制民主主義という制度の歯車を回し続けるには必要不可欠な作業である。東氏の提起は、「積極的棄権」により歯車を回さないことで、議会制民主主義を批判的に再考しようという点に、本意があるのではないか。それは別の民主主義の在り方を模索する可能性をも示唆する。

 「棄権は危険」といった意見が散見されるが、私も理解はできる。主権者にとって、投票は政治運営に参加できる主たる機会だということだろう。だが、だからといって別の民主主義の可能性が抑圧されることには、納得できない。そう思い、投票には行ったが、東氏のキャンペーンにも署名した。「保守対リベラル」という奇妙な対立構図の中で、「積極的棄権」は「革新」に分類されうるかもしれない。東氏に言わせれば、この私見は「誤配」なのかもしれないが、この第三極による民主主義の活性化の可能性が、衆院選後に抹消されることだけは、何としても避けたい。



以上、いつも通り某新聞「声」欄への没稿です。