アメリカ支配への「棘」

 10月9日、「チュニジア国民対話カルチット」にノーベル平和賞が贈られた。「九条の会」や被爆者団体はその功績や活動にもかかわらず選ばれなかった。安保法制が成立した今、この情勢を見ると、日本へのアメリカ支配が象徴的に示されているように思われる。日本国憲法第9条も被爆者も、アメリカにとっては「棘」にしかならない。だからノーベル平和賞が授与されないのではないか。もちろんアメリカは授与の主体ではないが、そのような愚考さえ現実味を帯びるのが現状ではないか。
 アメリカ支配の強まりは、安保法制の反対運動にさえ見ることができる。曲がりなりにも保たれてきた安定を持続させるためには、アメリカ軍の存在(抑止力)が必要不可欠である。安保法制賛否の表面的な対立は、両意見の必要条件が同じであること、すなわちアメリカ軍の存在(抑止力)が必要条件であることを隠蔽する機能を果たしているのである。そしてその必要条件の黙認的肯定は、沖縄の米軍基地存続をも肯定することになるだろう。
 抑止力の機能を論点とした議論が本格的に起こらず、安保法制の賛否ばかりが取り沙汰される現況に、「何となく」で進んでしまうのではないかという不安を覚える。アメリカ支配を批判的に考察するには、安保法制の賛否ではなく、抑止力の機能を根本的に再考することが必要であり、その「棘」から現状を捉え返すことが必要だと思うのだが、いかがだろうか。