主権在民の意義と国民の責任

 2月7日に年間追加被曝線量1ミリシーベルトを「何の根拠もない」と言った丸川珠代氏、2月17日にオバマ大統領を「奴隷」呼ばわりした丸山和也氏など、政治家による問題発言が相次いでいる。政治家も世論も「発言撤回だ」「除名だ」「辞職だ」とまくし立てる。民主主義の主権者、国民の責任が麻痺した現代日本に、いかにもふさわしい姿である。「民主主義って何だ」という問いが生じるのは、蓋し必然である。
 しかし、我々は誤解していないか。主権は国民にある。当然、内閣の閣僚を選出した首相も含めて、彼らの最終的な任命責任も、代表者を選挙で選出した国民にある。「責任をとれ」と政治家に辞職などを迫るのは、主権者自らの責任放棄以外の何ものでもない。その主権者の無責任が、かつてのファシズムを生成したのではなかったか。これは独裁者に起源するのではない。民主主義を土台とした、無責任な主権者による選挙が起源なのである。
 この歴史的事実は、国民の無責任化によって、民主主義が容易に独裁化することを明示する。「不祥事があれば丸坊主でOK」とする昨今の国民の無責任さは、ネオファシストにとってはさぞかし追い風となろう。私はこの近況に恐れと怒りしか感じない。自戒も込めて、主権在民の意義を活性化するには、忙しさにかまけず選挙公報を熟読するなど、国民の責任を全うすることしか、方途は思い当たらない。