「考えない葦」という論難こそ民主主義否定だ

4月27日の田中修氏による「なぜ見えぬ若者の政治的主張」を拝読した。私自身、若者に入るかどうか迷ったが、思うところあり筆を執った。個人的には安倍政権には批判的スタンスをとっているが、ここで私が為すのは、残念ながら安倍批判ではない。
 田中氏は玉稿にて「なぜこんな調査結果なのか」と問いかけておられる。私見では、むしろ田中氏の玉稿そのものがその問いへの答えである。「私が若い頃は云々」とおっしゃるが、同年代の方々は皆そうだったのか。あるいは「電車などでゲームをする若者が多い」とおっしゃるが、管見の限り、年配の方もよくゲームをなさっている。電車内で読書していると、年齢を問わず、私は孤独を感じる。
 木も見ず森も見ず、世論調査と体験のみをあてにした安易な一般化こそが、「考えない葦」を生産する。そして、そんな葦を教育という装置を通して生産してきたのは、いったい誰なのか。自らを棚に上げて、他世代を「考えない葦」と論難することは、「考えない葦」の再生産にしか帰結しえず、それこそ民主主義の否定であると私は考えるのだが、いかがだろうか。