「責任をとれ」という無責任さ

政治家の失言による発言撤回は、今に始まったことではない。例えば、山本地方創生相の「学芸員はガンだ」、今村復興相の「自主避難は自己責任だ」という発言が、大きな話題となった。世論はこうした見解に批判的であることは言を俟たない。政治家も世論も「発言撤回だ」「辞職だ」とまくし立てる。民主主義の主権者、国民の責任が麻痺した現代日本に、いかにもふさわしい姿である。「民主主義って何だ」という問いが生じるのは、蓋し必然である。しかし、私はこの光景に大きな違和感を持っている。

 彼らを政治家に押し上げたのは誰か。主権は国民にある。当然、内閣の閣僚を選出した首相も含めて、彼らの最終的な任命責任も、代表者を選挙で選出した国民にある。「責任をとれ」と政治家に発言撤回や辞職などを迫るのは、主権者自らの責任放棄以外の何ものでもない。その主権者の無責任がファシズムを生成したのではなかったか。

 この歴史的事実は、国民の無責任化によって、民主主義が容易に独裁化することを明示する。発言撤回後には静まり返る世論が、その無責任さを傍証している。昨今の国民の無責任さは、例えば教育勅語に賛同する人々にとってはさぞかし追い風となろう。私はこの近況に恐れと怒りしか感じない。責任をとるには、普段から選挙公報や政党の主張をチェックするなど、政治権力を監視し、選挙に一票投じることだろう。凡庸かもしれないが、主権在民の意義を活性化するには、このような形で国民の責任を全うすることしか、方途は思い当たらない。