三度と騙されない

社会にとって、反省することは必要不可欠である。しかし、その反省がいかなる形をとるかで、その社会の今後が決定されると思う。今回の参院選で、改憲が争点とならなかったと、安倍首相は言う。メディアもその見解を受け入れ、今後は改憲に焦点が当たると報じている。だが、私はこの反省に強く疑問を感じている。
 争点とは、政治家が作るのか。むしろ主権者たる国民が作るのではないのか。メディアで政治家が語らなくても、改憲についての各党の見解を国民が調べる方法は、いくらでもある。参院選の争点から改憲を除外したのは、安倍首相ではなく、国民に他ならない。
 選挙の争点から改憲が除外され、選挙後に再浮上するというのは、今回が初めてではない。我々は一度騙されている。また同じことを繰り返した。いわば、同じ詐欺師に二度騙されたようなものである。それは騙される側の不注意も大きな要因である。改憲を争点から除外したことを不誠実と評価して、アンフェアだと言ったところで、国民の反省とはなりえない。国民に必要なのは、「もう三度と騙されない」という反省ではないのか。
 私事ながらもう一言。昨年中国人女性と結婚して、今年から日本で共に暮らしているが、妻には主権者の資格がなく、選挙そのものから除外されていることも付言しておきたい。

主権在民の意義と国民の責任

 2月7日に年間追加被曝線量1ミリシーベルトを「何の根拠もない」と言った丸川珠代氏、2月17日にオバマ大統領を「奴隷」呼ばわりした丸山和也氏など、政治家による問題発言が相次いでいる。政治家も世論も「発言撤回だ」「除名だ」「辞職だ」とまくし立てる。民主主義の主権者、国民の責任が麻痺した現代日本に、いかにもふさわしい姿である。「民主主義って何だ」という問いが生じるのは、蓋し必然である。
 しかし、我々は誤解していないか。主権は国民にある。当然、内閣の閣僚を選出した首相も含めて、彼らの最終的な任命責任も、代表者を選挙で選出した国民にある。「責任をとれ」と政治家に辞職などを迫るのは、主権者自らの責任放棄以外の何ものでもない。その主権者の無責任が、かつてのファシズムを生成したのではなかったか。これは独裁者に起源するのではない。民主主義を土台とした、無責任な主権者による選挙が起源なのである。
 この歴史的事実は、国民の無責任化によって、民主主義が容易に独裁化することを明示する。「不祥事があれば丸坊主でOK」とする昨今の国民の無責任さは、ネオファシストにとってはさぞかし追い風となろう。私はこの近況に恐れと怒りしか感じない。自戒も込めて、主権在民の意義を活性化するには、忙しさにかまけず選挙公報を熟読するなど、国民の責任を全うすることしか、方途は思い当たらない。

「何となく」を断ち切るために

前略
自民党参議院議員 丸山和也
 あなたが、2月17日にオバマ大統領を「奴隷」呼ばわりなさったこと、新聞にて拝読しました。またネットでは、日本が「第51番目の州」となることにも言及されたとのことも拝見しました。ご発言内容の是非を申し上げるつもりはありませんが、どうか発言を撤回したり、ましてや議員辞職をしたりしないでいただきたい。
 あなたを国民の代表として選んだのは、日本国民です。選出した側に責任があるのであって、あなたご自身が辞職されても責任をとりえません。自民党はあなたを排除しようとするでしょう。しかし、参議院議員であるあなたは、比例代表制でまさに「自民党」として選出されておられます。自民党にあなたを排除する資格はございません。
 発言撤回、議員辞職で「何となく」事足れりとする日本の政治風潮にはうんざりしています。そうした「何となく」の風潮は、国民にもあります。例えば、安保法制賛否の表面的な対立は、両意見の必要条件が同じであること、すなわちアメリカ軍の存在(抑止力)が必要条件であることを隠蔽する機能を果たしていると、私は見ています。抑止力の機能を論点として本格的に議論した上で、投票すべきです。我々が次の選挙の際にあなたのことを思い出し、「何となく」ではなくきちんと頭を働かせて選挙に行けるように、今は堪えて下さい。それが、あなたがとるべき責任だと思います。よろしくお願い申し上げます。
草々

アメリカ支配への「棘」

 10月9日、「チュニジア国民対話カルチット」にノーベル平和賞が贈られた。「九条の会」や被爆者団体はその功績や活動にもかかわらず選ばれなかった。安保法制が成立した今、この情勢を見ると、日本へのアメリカ支配が象徴的に示されているように思われる。日本国憲法第9条も被爆者も、アメリカにとっては「棘」にしかならない。だからノーベル平和賞が授与されないのではないか。もちろんアメリカは授与の主体ではないが、そのような愚考さえ現実味を帯びるのが現状ではないか。
 アメリカ支配の強まりは、安保法制の反対運動にさえ見ることができる。曲がりなりにも保たれてきた安定を持続させるためには、アメリカ軍の存在(抑止力)が必要不可欠である。安保法制賛否の表面的な対立は、両意見の必要条件が同じであること、すなわちアメリカ軍の存在(抑止力)が必要条件であることを隠蔽する機能を果たしているのである。そしてその必要条件の黙認的肯定は、沖縄の米軍基地存続をも肯定することになるだろう。
 抑止力の機能を論点とした議論が本格的に起こらず、安保法制の賛否ばかりが取り沙汰される現況に、「何となく」で進んでしまうのではないかという不安を覚える。アメリカ支配を批判的に考察するには、安保法制の賛否ではなく、抑止力の機能を根本的に再考することが必要であり、その「棘」から現状を捉え返すことが必要だと思うのだが、いかがだろうか。

「戦後民主主義の虚妄」再考

 安保法案は廃案になる気配すら見せず、それに呼応するかのように法案反対のデモも規模を拡大している。しかし、メディアを通して見ている限り、安保法案の賛成派と反対派の意見が噛み合っているようには、どうしても思えない。
 その要因には、意識的にか無意識的にか、両者ともアメリカ軍への言及を避けていることがあるように思われる。賛成派にとっては、集団的自衛権の行使の大前提として、アメリカ軍の存在が必要不可欠である。しかしながら反対派にとっても、曲がりなりにも保たれてきた安定を持続させるために、アメリカ軍の存在が必要不可欠なのではないだろうか。安保法案賛否の表面的な対立は、両意見の存立条件が同じであること、すなわちアメリカ軍の存在が必要条件であることを隠蔽する機能を果たしているのである。したがって、安保法案に賛成であれ反対であれ、この点を明確に意識しない限り対米依存を強化することにしか帰結しない。
 これを論点とした議論が起こらないことに、私はある種の不安を覚える。またこの逃げ道の無さは、ある種のニヒリズムとも言える感覚を私に引き起こす。それでも私は、丸山眞男の言葉を借りれば、大日本帝国の実在よりは戦後民主主義の虚妄に賭ける。

「領海侵犯」という被害妄想的虚構

 安保法案の条件の1つに、「情勢の変化」が挙げられることは、既に周知の事実であろう。「情勢の変化」とは、具体的には、例えば中国による「領海侵犯」を指すだろう。しかし、これを中国側から見ればどういう見解となるのだろうか。中国の目的は「領海侵犯」なのではなく、恐らく資源採掘調査、すなわち経済的な問題であろう。それに対して、「領海侵犯」という表現はアイデンティティに関する問題である。この2つの問題では不即不離ではありながらも、区別して理解すべき問題である。
 しかしながら、政治家をはじめ、世論も中国の行動を「領海侵犯」とは言っても「資源採掘調査」とは言わない。これは、中国の経済的行動を日本のアイデンティティの危機へとすり替えた理解なのではないか。無論、中国の経済的行動は別途検討が必要だが、もしアイデンティティの危機が日本の被害妄想による一方的な虚構だとすれば、安保法制は存立根拠を喪失する。少なくとも、例えば領海侵犯した中国人により日本人が殺害されたという事件を、私は寡聞にして知らない。さらに言えば、個人として中国人に日常的に接している私の経験から言えば、アイデンティティを侵害されたことはない。中国との間で解決を図るべき手段は、非合理的な仮想戦争ではなく、あくまでも経済的問題を解決する合理的な外交であると、私は考える。

「非国民よ、お国のために死ね」まであと一歩

 7月下旬に、戦争法案に反対する学生団体「SEALDs」に対して、「自己中心的だ」と述べた武藤貴也氏への批判が起こっている。武藤氏は「SEALDs」がだまされている情報を否定し、その根拠として「法案が成立しても戦争に行くことはなく」(『朝日新聞』2015年8月5日)と言うが、果たしてそうだろうか。
 彼のブログには「他国が侵略してきた時は、嫌でも自国を守るために戦わなければならない」(2015年8月3日「国民に課せられる正義の要請」)とある。明らかに日本が戦争に巻き込まれることを想定している。外交力がなければ、突発的な戦争に巻き込まれ、臨時案として徴兵制が整備され、恒常化することも考えられる。湯川遥菜さん、後藤健二さんを殺させてしまった現政権に、そうならない外交力は本当にあるのか。武藤氏の見解とは逆に、戦争法案は戦争へ巻き込まれないための最後のストッパーを外すことだと、私は考える。
 無論、私見は武藤氏からすれば「自己中心」、もっとはっきり言えば「非国民」と映るだろう。「嫌でも自国を守るために戦わなければならない」と述べる武藤氏の発言は、「非国民よ、お国のために死ね」という言葉までの重大なあと一歩である。現政権が、いや、主権者たる国民がこれから選択するのは、他国への先入観によらない合理的な外交力か、それとも非合理的な「非国民よ、お国のために死ね」か。